矢部氏居館は、現在は市道わきに土塁が残るのみとなっています。付近を散策すると、矢部氏の痕跡をいくつかうかがうことができます。
矢部氏居館は、JR横浜線 矢部駅から徒歩で20分あまり。北側には東京都と神奈川県の境である境川が流れています。Googleマップ上で「矢部城跡」となっているところです。
土塁は、相模原市道淵野辺境橋線沿いにあり、道路側はコンクリートで固められています。南側には「上矢部の土塁」と表示された説明板があります。市道側が居館があった内側と考えられていて、土塁の外側は箱薬研形(はこやげんがた)の堀があったことが発掘調査で明らかになったと、相模原市教育委員会が設置した説明板にあります。
「日本城郭大系」では、延長25m、比高1−3.5m、頂部幅1m前後とあり、市道を歩いて土塁を見上げると、なかなかの高さであることが実感できます。これが囲んでいたら、外敵の侵入は難しかったでしょう。



「日本城郭大系」編集の頃は、西側にもう1箇所土塁が残っていたようですが、現在は記述にある祠のみで、土塁そのものは削られてしまったようで、見ることができませんでした。私有地の庭なので写真は控えました。
土塁から、市道を南に少し行ったところに、「上矢部の板碑」があります。

相模原市の重要文化財に指定されていて、説明板によれば、板碑は、上部に阿弥陀如来の像、その下の左右に蓮華の花、中央に乾元2(1303)年8月と記されているそうです。1213年の和田合戦で戦死した矢部義兼の供養のために建てられたそうです。

板碑のある場所から市道を渡って住宅地の中に少し入ったところに、薬師堂があります。
矢部氏居館の裏鬼門にあたるといわれると、説明板にあります。

また、土塁の北側、境川沿いに、御嶽神社があります。
こちらは、説明板によると、矢部氏居館の鬼門にあたると言われているそうです。
この神社は、建久年間(1190−1199)に矢部義兼によって「三嶽社」として勧請され、その後、建武年間(1334−1338)に「御嶽大権現」として再建されたと伝えられると、説明板にあります。

鬼門が北西、裏鬼門が南東とすると、土塁が想定する居館と、位置関係が合わないように思います。時間が経つ中で、薬師堂や神社が場所を移動したと考えればいいのでしょうか。
こうして、土塁のまわりを散策すると、矢部氏の痕跡がいくつか見られます。矢部氏に関わる伝承が、この地域に今も残っている状況を読み取ることができます。
ところで、「相模原市史 考古編」は、土塁と居館と想定される場所に対して数次にわたる調査を行ったことを述べ、その結果、矢部氏の時代の遺物は皆無であるとし、一部の遺構の現状、遺物の年代観から少なくとも15世紀前半から中頃に居館が存在していたことは確かだと述べています。
さらに、全体構造として、中央に土塁と堀を伴う一辺90m程度の方館が主郭として存在し、その西側にテラヤシキの小字が示す寺院関連施設、さらにその西側に土塁を伴う副郭というように、連郭構造の居館であった可能性を提示しています。そして、後北条氏の「役帳」から、後北条氏の家臣である幸田右馬助の寄子で、矢部、鵜野森一帯を支配していた長澤、井手という在地領主の名を挙げ、注目すべきだと述べています。
確かに、市道から土塁を見上げた規模は、鎌倉時代の居館とは思えないようにも感じます。
この土塁は、室町から戦国時代の城郭の一部なのかもしれません。
参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6」新人物往来社 1980
相模原市教育委員会『相模原市史 考古編』2012

