上浜田中世建築遺構群は、鎌倉時代から室町時代(13世紀中葉〜15世紀中葉)にかけての建築遺構群で、現在、浜田歴史公園内に、武士階級の住居と考えられる建物の跡が示されています。
城郭ではありませんが、中世の武士の屋敷がどのようなものかを知るために、『首都圏発 戦国の城の歩き方』等の城郭を紹介する書籍でも取り上げられています。
浜田歴史公園には、JR相模線、小田急線、相鉄線の海老名駅から、バスか徒歩となります。近くに駐車場はありません。
公園は住宅街の一角にあります。
公園内に、建物や柱の位置が示されています。

南側の大きな建物が「主屋」と考えられています。

隣接する建物は「厩屋」と考えられています。厩屋も、それなりに広いです。

北側の建物は「附属屋」とされています。

井戸の跡も見つかっています。

屋敷の周囲には、堀や土塁があったわけではないようです。公園の西側が若干高くなっていて、よく見ると、この公園の周囲の地形が、西が高く東が低い斜面になっていることがわかります。防御の面ではたいへん不利です。『首都圏発 戦国の城の歩き方』では、「西から東に向かってゆるやかに下ってゆく、丘の中腹のようなところを平らに削り込んで、屋敷地として」おり、「水はけも陽当りもよくて住みやすいし、領地を治めるにも都合がいい」と説明しています。さらに、「鎌倉時代であろうが戦国時代であろうが、地方の武士たちは、戦いへの備えを持たない屋敷で暮らしているのが普通だった」と述べ、武士が「敵に備えて屋敷の防御を固めてゆくと城になる」のではないと言っています。
地方の武士は、常に戦いを意識していたわけではない、ということなのでしょう。ましてや、城に住んでいたのでもないということです。
他にも、誰々の館跡などという遺跡が見つかっていますが、それらを見ていく際に、敵に備えていただろうという先入観無しで、考えていくことも必要なのかもしれません。
それでは、城とは何だったのでしょうか。中世の武士は、普段は生活しやすい屋敷で過ごし、戦いのために、城を築いた。つまり、日本の城郭は、武士の屋敷からではなく、戦うための砦から発展していった、ということになるのでしょうか。
この遺跡は、城そのものの歴史を考えさせてくれる場所なのです。
ちなみに、この近辺は、瓢箪塚古墳や上浜田古墳群といった古墳が多い地域でもあります。


(写真撮影 2019.4)
参考 西股総生『首都圏発 戦国の城の歩き方』KKベストセラーズ 2017

