懐島権守景義館(懐嶋館址)

相模の城歩き

懐島(ふところじま)権守景義は、平安時代末期から鎌倉時代初期の豪族大庭平太景義の別称です。

保元の乱では源義朝に従い、源頼朝の旗揚げに際しては、弟の景親が平氏方についたのに対し、当初から頼朝に従い、その功績で鎌倉幕府の重臣となりました。晩年、懐島に隠棲し、館址は神明社のあたりであると『日本城郭大系』は述べています。

懐嶋館跡へは、JR相模線 北茅ヶ崎駅から徒歩で20分あまりです。また、茅ヶ崎駅からバス「茅26 文教大学行」で、バス停「円蔵」で下車します。

懐島郷は、景義没後、子の小次郎景兼が継ぎますが、和田合戦で討ち死にし、以降は、二階堂氏や大仏氏、足利直義などの所領となっています。
その後、上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏勢が懐島に陣を敷き、戦国期の後北条氏の家臣近藤孫太郎が懐島に所領をえているので、鎌倉期から戦国末期まで、代々領主によってこの地が利用されてきた可能性を、『日本城郭大系』は指摘しています。

現在、館址とされる場所には、神明大神宮が建っています。

境内には、「懐嶋郷発祥の地」碑、神輿や祭囃子の由来など、多くの石碑や説明などが並んでいます。
この神社が、地域の深い信仰を受けている様子がうかがわれます。

拝殿の左にある慰霊碑のわきの館址碑の場所を示す表示板の右下に、「懐嶋館土塁址」の石碑があり、この場所に土塁があったことを物語っています。
基底幅2.5m、高さ1.5mとあります。

そのまま、拝殿の裏に回り込むと、「懐嶋館址」の石碑や、懐嶋景義(能)の石像、石碑や五輪塔、説明等が並んでいます。

これらのある場所の裏は、すぐ住宅となっています。住宅が建つ地表面は、神社のある地表面と比べると、あきらかに低くなっています。
これが、堀の痕跡なのかもしれません。

神社の裏に隣接する住宅の、さらに北西には畑が広がっていますが、よく見ると、土地に高低が見られます。住宅に囲まれ入ることができず、詳細はわかりませんでしたが、これも何らかの遺構を示すものかもしれません。

さらに、神社の南西側に隣接する住宅とその隣の住宅の間が、住宅のある地表面からあきらかに低い溝となっていて、これも堀の痕跡なのかもしれません。

『日本城郭大系』は、執筆された当時、神社の北側と西側に掘が残っているとしています。現在はそれぞれ住宅が立ち並び、遺構の詳細はわからなくなっていましたが、現在残る姿に、遺構の痕跡が現れているのかもしれません。(個人の住宅の敷地にあたる場所により、撮影は控えました)

『日本城郭大系』は、この地は、相模川渡河地点の宿駅を押さえる位置、地形にあり、景義が居館を営むには適地であることは疑いなく、支配層に利用され続けたことは想像に難くないと述べています。

残っていた堀や土塁は、景義の頃、鎌倉期の武士の宿所ではなく、のちの室町期の陣跡だろうと、『神奈川中世城郭図鑑』も述べています。

室町期の陣跡であれば、近年まで遺構が残っていてもおかしくはないでしょう。

相模川をわたり、鎌倉方向に進もうとすると、北から迫ってくる高座丘陵を避けるためには、この地のあたりを通らなければなりません。
また、相模川下流に広がる低地は、水を得やすく、古くから水田が広がり多くの領民も暮らしていたことでしょう。

このように、交通の要衝にあたり、富裕な土地であったことから、武士の居館や戦いの拠点が幾度か設けられた場所だったと想像できます。

住宅地が広がり、遺構をはっきりと確認できませんが、そのような土地の歴史に思いを馳せながら、散策してもいいかもしれません。

参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980
   西股総生・松岡進・田嶌貴久美『神奈川 中世城郭図鑑』戎光祥出版 2015