武蔵七党の一つで横山党に近い猪俣党の祖時資から七代目の伊予僧都が、今泉氏を名乗っています。
今泉氏の館は通称井戸坂の北側にあったとされ、その井戸坂へは、JR相模線 海老名駅から徒歩20分あまりです。
西側に相模川の氾濫原が広がり、そこに、東側から台地が張り出して、氾濫原との境目に段丘崖を形成しているところです。このあたりでは、ちょうど相模線が、台地と氾濫原の際の段丘崖の下を通っています。
氾濫原の側から見ると、眼の前に台地が迫っている様子がよくわかります。
現在は住宅が立ち並んでいますが、この台地の上に館があったことになります。

氾濫原には、現在も水田が広がっていますが、当時も館から領地の水田をよく見渡すことができ、統治にふさわしい館の位置だったと考えられます。

現在台地上は住宅などで開発され、当時の面影は見られません。
井戸坂の標柱に歴史が刻まれているくらいです。

さて、この今泉館には、悲しい伝承が伝わっています。
『日本城郭大系』によれば、永享の乱の翌年(1439年)、足利持氏方であった一色伊予守六郎は、今泉館に立てこもりますが、長尾憲景、太田資光らが率いる幕府方の追討軍に惨敗、下野へ逃れます。
今泉館落城の際、身重であった伊予守の妻護王姫は館を脱出し逃れようとしますが、途中で敵に囲まれてしまいます。
護衛を失い命からがら集落にたどり着いて一子を難産の末産み落としますが、その子は敵に奪われ、面前の川に捨てらてしまったといいます。
このとき、警護の武士が討たれた場所を「甲斐ない坂」、赤子を産んだ村を「産川(さんがわ)」と伝承されていると『日本城郭大系』は述べています。
今泉館から東に伸びる道を進んでいくと、現在も「かいな坂」(標柱に「不甲斐ない坂」がつまって「かいな坂」となったと説明されています)という地名が残っています。
一見穏やかな坂ですが、身重の姫にはさぞきつかったことでしょう。

坂を上がりきった場所が台地のピークで、そこを過ぎて下っていくと、やがて、「産川橋」という橋に出て、その近くには「護王姫の碑」がまつってあります。
このあたりが、産川の村があった場所なのでしょう。



『日本城郭大系』によれば、傷心の姫は座間入谷の星ノ谷に至って落命し、そこに護王姫神社が祀られ、後年はお産の守神様として信仰があったといいます。
現在も、座間市入谷の星谷寺(しょうこくじ)の近くに「護王姫大明神」が祀られています。
産川橋から現在の道で、徒歩40分あまりです。

ところが、神社の境内にある座間市重要文化財である大欅の説明板には、「護王明神は伝説によると、源義経の側室の牛王姫を祀ったもの」とあり、今泉館の護王姫とは違う姫になっています。

説明板によると、牛王姫はこの地で難産のために死んでしまい、哀れに思った村人は姫母子を葬ったそばに欅を植えて、墓標のかわりとしたそうです。
その後、円教寺の住職日範により、日蓮上人に牛王姫の墓前で読経をしてもらい、安産の神 護王姫としてここに祀ったということです。
なぜ異なる伝承がそれぞれあるのかはわかりませんが、村人たちは、亡くなった姫を哀れに思い、現在に至るまで祀っているということなのでしょう。
歴史は、このように、その場所で生活する人々の思いで受け繋がれているのだということを、改めて感じました。
参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980

