高木主水正清秀屋敷

相模の城歩き

高木主水正清秀(たかぎもんどのしょうきよひで)は、天正18(1590)年、徳川家康の関東討入の際に武蔵・上総・相模に五千石の知行を得、文禄3(1594)年に子の正次に家督を譲り、海老名郷に居を構えた、と『日本城郭大系』は述べています。

そして、高木主水正清秀屋敷の所在地を示す史料はありませんが、『郷土の資料』により諏訪神社近くの西部よりに推定されるとのことです。

この諏訪神社へは、小田急小田原線・JR相模線 厚木駅から徒歩10分あまりです。

境内にある由緒書きには、大化の改新後の開墾によって中新田の地域が誕生し、この地の草創のころ、諏訪神社が創建されたとあります。そして、「元和6(1620)年、地頭の高木主水政次による社殿建立の棟札が残る」と記され、清秀の子正次の名前が見られます。

清秀の館と想定されている地は、現在は住宅街となっています。
『日本城郭大系』による推定位置は、次のとおりです。

このあたりは、相模川沿いの低地が広がっている場所です。川に近い低地の西側は開発され市街地が広がっていますが、低地の東側、台地の手前までは、場所によっては現在も水田が広がっています。「中新田」という地名が表す通り、当時は広い水田に囲まれた豊かな土地であったのでしょう。


この相模川沿いに広がる低地に東側に張り出す台地上には、いくつかの館跡、城趾と伝えられる地があります。それぞれ戦いを前提として、中世、戦国期の城館が地の利を活かして作られているのです。


そのことを念頭に置くと、戦国の世が終わり、戦いのために館を防備する必要がない時代になると、清秀のように、いわば低地の真ん中に館を築くものが現れるようになったのだと、理解することができます。


『日本城郭大系』は、慶長9(1604)年と翌年の二度にわたり、徳川家康が鷹狩のついでに館に立ち寄り、その都度、鷹や呉服などを賜ったという逸話を紹介しています。

清秀の子正次は、元和9(1623)年には大阪の定番となり、千石の加増を受け、相模に替わって河内国丹南に一万石を領しています。以降、明治維新まで譜代大名の丹南藩主家として続いたそうです。

住宅地に当時の面影を見ることはできませんでしたが、清秀らも拝んだであろう神社に詣でることで、当時を偲ぶことができました。

参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980