薩摩鶴田氏の祖として知られる渋谷庄司重国の四男重茂は、薩摩に下る前は高座郡大谷(おおや)郷に居を構え、大谷四郎を名乗っていたことが「渋谷系図」にあると、『日本城郭大系』は述べています。
JR相模線・小田急線・相鉄線 海老名駅より、相鉄バス(綾31 農大前行)にのり、「大谷宿」で下車すると、大谷館があったとされる台地のふもとまで行くことができます。海老名駅、または厚木駅から徒歩だと、それぞれ30分かからないくらいです。
バスの進行方向にそのまま少し行くと、左手に大谷観音堂があります。

観音堂の由来によれば、治承4(1180)年1月19日に、吉岡太郎光重の妻麻子が霊夢に感じてこの地に観世音を祀り、その信仰によって授かった知勇兼備の武将となった6人の男子のうち、四男の重茂は大谷四郎と名乗り、現在の大谷中学校の所在地に館を構えたとあります。

『日本城郭大系』では重国の子としている重茂が、ここでは、重国の子の光重の子となっています。
観音堂のある場所は、西側が相模川沿いの低地で、観音堂の裏に当たる東側が台地になっています。その台地上に大谷中学校があり、そのあたりが館跡ということになります。
海老名市のあたりでは相模川は南北に流れ、川沿いの低地と台地の境界も南北に続いています。
先程のバス通りを、北側、海老名駅の方向に少し戻ると、台地のある東側に入る道があります。
ちょうどそのあたりは、台地が途切れていて、谷を形成していることがわかります。大谷という地名の由来でしょうか。

谷底を通るその道をすすむと、両側に台地が迫っている様子をうかがうことができます。
特に、大谷館があったとされる南側は、どこまでが当時の地形かはわかりませんが、急峻な崖を見ることができます。

道はやがて坂を上り、台地を回り込むように南側に折れていきます。
上りきったあたりの交差点を西に曲がると、比較的広い平らな台地上にでます。
このあたり、日当たりのいい台地上に、館が築かれていたのでしょう。道は大谷中学校の正門を通って、そのまま先程の観音堂の方に下りる道につながります。
地形的には、西側に低地、北側から東側を谷に囲まれた、いわゆる舌状台地のような場所になっています。

地理院地図
鎌倉時代の館ということを考えると、戦いに備えるためにこの地を選んだということではないのかもしれません。
ただ、台地上の館からは、西側の低地に広がる水田を見下ろすことができ、領地を把握するには適した場所だったということができます。
どこまで当時の地形が残っているのかはわかりませんが、この台地上に、館があったということなのでしょう。
大谷館は、明確な痕跡は見られませんが、観音堂の由来や地形の様子から、当時のことを偲ぶことができました。
参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980

