白井織部是房屋敷/座間城

相模の城歩き

応仁・文明年間(1467−1487)の頃、座間七村の地頭職であった白井織部是房の屋敷跡が、座間山心岩寺の北二百メートルのあたりにあると、『日本城郭大系』は述べています。

白井織部是房屋敷跡を示す標柱がある場所へは、小田急小田原線 座間駅から徒歩10分です。

標柱の字は薄れていますが、「開基 白井織部是房氏之舊蹟」の文字が見えます。

裏側から、この標柱は、明治四十年?に、「座間山 心巌寺」によって建立されたことがわかります。この近くにある心岩寺と思われます。

この標柱は、神奈川県道51号町田厚木線が、神奈川県道42号藤沢座間厚木線と交差している場所にあります。
標柱の裏手は少し高くなった空き地になっていて、Googleマップ上で「座間城」とあるのはこのあたりかと思われます。

標柱と空き地の東側には崖が迫っていて、崖の上の台地は、現在、住宅地になっています。

つまり、標柱のある場所は、西側から続く相模川沿いの平地と東側に広がる台地の境目となる崖の下にあたります。

地理院地図を加工
赤丸が標柱の場所

崖の上の台地に屋敷があったほうが防御にも攻撃にも有利であるように思えますが、標柱の場所を素直に捉えれば、崖の下の平地に屋敷があったと考えた方がいいのでしょう。

標柱のあたりは、平地が西に向けて下っていくゆるやかな傾斜地形になっているので、平地に広がる水田を見渡しやすく、統治にも都合のいい場所だったのではないでしょうか。

標柱を建立した心岩寺は、ここから南に百数十メートルのところにあります。

市教育委員会が設置した説明板の中に、「この地の郷士白井織部是房が開基となって、白井氏の持仏堂を寺とした」と記載されています。

標柱にもありましたが、白井織部是房が心岩寺を開基した人物なのです。
そのような関係から、寺が屋敷跡の標柱を建立したということなのでしょう。

説明板にある1460年頃といえば、室町時代、京都では応仁の乱が勃発する直前の頃です。

都から遠く離れたこの地で、当時、力を持っていた武士が開基した寺が現在も信仰を続けており、その屋敷跡もしっかりと地域の記憶の中に刻まれているということがわかります。

参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980