淵辺義博(ふちべよしひろ)は、中先代の乱(1335年)の際に足利直義の命により護良親王を殺害したとされる人物で、遠い昔、高校の授業で教わったことがあります。遺構は残っていないようですが、居館跡を示す石碑が建っています。
淵辺義博居館跡は、JR横浜線 淵野辺駅から徒歩で20分くらいです。川崎市水道局の施設の手前になります。
住宅地の中にあってわかりづらいのですが、地図中のB、Cに表示が設置されていました。ちなみに、地図中のAは居館跡を示す石碑の位置、Dは後で述べる第六天の位置を示しています。

地理院地図を加工
Cの位置の表示です。

石碑は住宅の間の坂を登り、駐車場の奥、アパートの裏あたりで、川崎市水道局の施設の柵の手前にあります。
「淵辺伊賀守義博居館跡之碑」と書かれた石碑と由緒が書かれた碑がならんでいました。


この地は、東を流れる境川からは、一段高くなっている場所です。
「日本城郭大系」は、居館の場所を「県道を挟んで北の第六天や南側の天野家宅のあたりと地元では伝えている」と述べています。
実際、石碑の近くの民家は「天野」さんでした。
そこから、いったん根岸橋から淵野辺駅方向に伸びる県道に出て、県道の北側の少し行ったところに、現在、第六天の碑が建てられています。


この碑のある場所はなだらかな坂で、第六天坂という表示もありました。第六天のかつての位置もこのあたりと考えていいということでしょう。
この第六天のあたりから石碑のあたりに居館が広がっていたと考えると、ちょうど境川ぞいの低地から一段高くなった台地の境川に面した崖の上に居館があったということになります。
この台地は西側にさらにずっと広がっていて、この場所は、相模川が形成する河岸段丘の上段(相模原面)の北東端にあたります。
陽当りもよく、境川と低地が見下ろせる位置にあったことになるので、居館としては適した場所なのかもしれません。
居館跡の東側、境川には現在、根岸橋という橋がかかっています。
根岸橋から居館側を振り返ってみました。現在は住宅街になっていますが、当時は、崖の上に居館が見えたのではないでしょうか。

淵辺義博の居館は、すでに「日本城郭大系」に「遺構は見あたらない」と述べられており、さらに住宅化した現在、遺構を探そうとすることは無謀なのかもしれません。
ただ、地形から、居館が川から少し高くなった台地上につくられていたのだろうという想像をすることができました。
遺構はなくなってしまいましたが、石碑が建っているところから、地域にとっては、淵辺氏の存在は、大きなものであることも想像されます。
また、今回は訪れなかったのですが、居館の場所から南にいったところにある龍像寺は、淵辺義博が開基したと伝えられているようです。
遺構がはっきりしなくても、その場所を歩くと、歴史を感じることができるように思います。
参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980

