海老名館

相模の城歩き

海老名氏は平安時代末期から室町時代のころまで、現在の神奈川県海老名市あたりを中心に栄えた一族です。現在、館跡は残っていません。

JR相模線、小田急小田原線、相鉄線の海老名駅から徒歩20分弱で「海老名氏記念碑」、そこから徒歩10分弱で「海老名氏霊堂」に行くことができます。

海老名氏記念碑は、昭和46年の建てられています。石碑によれば、海老名氏は、「約八百年以前、相模守として当地にまいりました源四郎親季を祖とする」一族で、「武勇をもって聞こえた人が数多く輩出したといわれ」ています。そして、このような「勇武の士の拠ったゆかりの地も今や世人の記憶からその言い伝えさえ忘れられようとしているとき、これらの諸霊を慰め、その由来を永く後世に伝えるため海老名市が記念碑を建て」たということです。
この場所には、供養の石塔と由来の書かれた石碑、寄贈者の名が書かれた石碑、板碑などがならんでいました。

海老名氏記念碑から西に向かうと、有鹿(あるか)小学校に出ます。
『日本城郭大系』によれば、有鹿小学校の南側、県道相模原茅ヶ崎線との間が「御屋敷」という地名で、海老名氏宗家の拠点とされています。
現在は、住宅が密集している地域で、遺構は見られません。陽当りの良い平らな地形で、居館には適した場所だったことがわかります。

有鹿小学校から北にすすむと有鹿神社があります。
境内の由緒書きによれば、創建は古く、鳩川(有鹿河)の信仰がもとになっているようです。現在も、鳩川は、神社の北あたりで相模川に合流しています。この地に神社を建てたのは、そこに理由があるようです。
後には、相模国の延喜式内社随一の社格を有したということです。
やがて、豪族の海老名氏も崇敬を受けるに至ったようですが、海老名氏滅亡をきっかけに、美麗な社殿と広大な境内や社領も喪失したと由緒書きにあります。海老名氏がこの地域に勢力を張っていた頃、この神社も大きな庇護を受けたのでしょう。そのため、海老名氏滅亡とともにこの神社も一時衰退することになってしまったということでしょうか。

ちなみに、鳩川と相模川の合流地点に近いこの場所にあるのは有鹿神社の「本宮」で、ここから東400mあまりのところに有鹿化粧井戸(有鹿井)がある「三王三柱神社」が、そこから北東200mあまりのところに有鹿池のある「中宮」があります(「奥宮」は、ここから北に6kmほど先の、鳩川に注ぐ湧き水の出る相模原市南区磯部にあります)

三王三柱神社と有鹿井

中宮

この「三王三柱神社」はGoogleマップにのっていますが、「中宮」の場所はGoogleマップにのっていません。「中宮」の住所は海老名市上郷1-12で、「三王三柱神社」の前の道をそのまま北東方向に200mほど道なりにすすんだ、住宅と住宅の間にあります。

有鹿神社「本宮」から南西の方向に、海老名氏霊堂があります。住宅街がそろそろ切れて相模川の河川敷に近づくあたりです。入口には海老名氏墳墓入口とあります。

説明板によれば、海老名氏の菩提寺は、現在廃寺となっている宝樹寺と伝えられ、その跡地がこの霊堂のある一帯のようです。堂内には、海老名氏ゆかりと伝わる宝篋印塔や五輪の塔が安置されています。

『日本城郭大系』は、この宝篋印塔を、海老名源八季定の墓との伝承を伝えています。また、宝樹寺の本尊と千手観音は「共に総寺院に引き取られた」とあります。この霊堂の東、有鹿小学校の西に、總持院があります。

海老名氏の館跡は現在はっきりとした形では残っていません。が、記念碑や霊堂に、この地域の人々が今も海老名氏に対して思いを持っていることを感じることができます。また、このあたりは相模川沿いの、川からは少し高くなった低地の広がる場所であり、人々が生活しやすかった場所であったことが、訪れると実感できます。海老名氏は、このような豊かな場所に居館を建て、勢力を持っていったのでしょう。

参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980