大島豊後守正時屋敷

相模の城歩き

大島豊後守正時(おおしまぶんごのかみまさとき)は、房総里見氏の武将大島義金の息子にあたります。

永享の乱(1438年)の際、房総里見氏は、大島義金を海老名氏に援軍として送ります。このことが機縁となって、正時は海老名一族の将、海老名兵衛尉広治の娘を妻としています。

その後、広治は、相模川対岸の日奉(ひまつり)宗友との領地争いがおきた際、再び大島氏の来援を求めます。そして、日奉氏を破り、間もなく、広治が病で没したため、正時が、そのまま相模に残り、遺領を継いだと、『日本城郭大系』は述べています。

大島正時の屋敷の一部は、現在、大島記念公園となっています。
大島記念公園へは、小田急小田原線・JR相模線 厚木駅から徒歩11分あまりです。

大島記念公園は、比較的広く、遊具などもあって、地域の憩いの場となっているようです。

公園内には由緒を述べた石碑があります。

この碑文によれば、この公園は、この地に住んでいた大島節子氏が、大島家の屋敷であったこの土地を記念公園として残したいという故大島正和氏の遺志により土地を寄贈され、海老名市の公園として整備したものだということです。
さらに、大島家の由来について、初代大島豊後守正時は、清和源氏の流れをくむ房州里見氏の出で、永享の乱後に伯父にあたる相模の豪族海老名氏の要請を受け、領域をめぐる争いに加勢のため相模の地に居を構えたのだと記し、その後、代々五百余年の屋敷地であったと述べています。

現在も、公園と道路を挟んだ南側には大島家の表札を掲げた家があり、その東には、大島記念音楽堂というホールがあります。

このあたりを含めて、大島氏の屋敷であったのでしょう。

大島氏がこの地に居を構えて以降、どのような歴史をたどって現代に至っているのかは定かではありませんが、相模川の氾濫原にあたる低地のほぼ中央部に屋敷を構えているという点を、どう捉えたらいいのでしょうか。

以前、「上浜田中世建築遺構群」を紹介するときにも引用しましたが、『首都圏発 戦国の城の歩き方』は、「鎌倉時代であろうが戦国時代であろうが、地方の武士たちは、戦いへの備えを持たない屋敷で暮らしているのが普通だった」と述べています。

この大島屋敷のある氾濫原を東に行くと台地が広がっており、台地が低地に張り出したあたりには戦いに備えた城館も、いくつか作られています。
しかし、この屋敷は、水田が広がった低地の中央に築かれていたのです。『首都圏発 戦国の城の歩き方』によれば、この屋敷のあり方のほうが、地方の武士の屋敷の典型であるのでしょう。

その屋敷に、戦乱が終わった近世以降も住み続け、その子孫は、現代にも続いているのです。

その長い家の歴史を記念公園として残したいという気持ちに、深く先祖に対する尊敬の念が感じられます。

当時の痕跡を見つけることはできませんでしたが、一つの家の長い歴史を感じさせる場所でした。

参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980
   西股総生『首都圏発 戦国の城の歩き方』KKベストセラーズ 2017