平安末期に高座郡渋谷庄の丘陵一帯に勢力を張った渋谷庄司重国の三男時国は、恩馬(おんま)に居を構えて恩馬三郎と称したと『日本城郭大系』は述べています(『大系』は重国の子光重の三男重保であった可能性にも触れています)。恩馬氏の居跡の伝承地は現在の神奈川県立かながわ農業アカデミーの敷地内にあたります。
かながわ農業アカデミーへは、バスだと、JR相模線・小田急線・相鉄線 海老名駅より「農大前」行に乗ります。徒歩だと、JR相模線 社家駅から50分ほどかかります。
『日本城郭大系』が書かれた昭和50年代の段階で、「すでに整地されていて遺構は見定めがたい」という状況だったようです。
現在、かながわ農業アカデミーの校地には校舎や温室、実習棟などが建てられています。
校地の様子から館の姿を想像するのは難しいのですが、校地が丘陵の最も高いあたりにあるので、校地に向かう坂を上り、校地を外から望むことで、館がそのあたりにあったことを想像することができます。


かながわ農業アカデミーの校地を東西に横切る道路上に、「かぶき場の坂」という坂があります。


説明には、「坂を上がった南側の斜面が『かぶき場』と呼ばれ」ていたことが記されています。
南側はかながわ農業アカデミーの校舎があるので、そのあたりでしょうか。
このような地名がわざわざ残っているということは、館となにか関係があるのかもしれません。
また、『日本城郭大系』は、近くに鍛冶ヶ谷戸の字名があり、鍛冶職人の存在が考えられると述べています。
現在も、丘陵地を北に下りたところ、杉久保小学校の近くに、「鍛冶ケ入り橋」という橋があり、その地名を伝えています。

このあたりは、北方から続く台地の延長上にあたる、起伏がみられる丘陵地です。
東と西をそれぞれ流れる川が作る平地とはやや距離が離れ、北西側の少し離れたあたりも川の浸食によると思われるくぼんだ地形が見られます。

川の水が得にくい台地上のため、現在も、かながわ農業アカデミーの周辺には畑が広がっている様子がうかがえます。
ところで、海老名市内には、相模川沿いの低地に広がる水田の近くにいくつかの武士の館跡があり、そこでは豊かな水田を領地として支配していたのだろうと想像できます。
ところが、この恩馬の地は水田が作れそうもありません。
丘陵を下りた少し離れたところの水田を頼ったと考えるよりも、丘陵地に作られた畑を中心とした領地だったと考えた方がよさそうです。
現在、日当たりの良い畑に元気に作物が育っている様子を見ると、当時も、それなりに豊かな土地だったのかもしれません。
その丘陵地の中でも最も高いあたりを選んで、館を築いたのだと想像できます。
館跡そのものの痕跡は見られませんでしたが、丘陵地全体から、館と領地について考えることができました。
参考 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系 6』新人物往来社 1980

